部屋は、少しずつ荒れていった。

最初から完全に壊れていたわけではない。

大学には行けなくなっていたけれど、外に出る時はまだ普通の顔をしていた。社会との接点も残っていた。完全なひきこもりではなかった。

だからこそ、余計にごまかせてしまったのだと思う。

まだ戻れる。

まだ大丈夫。

またそのうち大学に行けばいい。

そう思っているうちに、生活だけが先に崩れていった。

部屋は、内側の状態を映していた

阪大時代の部屋は、きれいではなかった。

ゴキブリが出た。物も散らかっていた。生活のリズムも崩れていた。

ただ、後の愛知のひきこもり期に比べると、まだ「少し汚い部屋」だったと思う。社会との接点が完全に切れていたわけではなかったからだ。

外に出る時は、普通の顔をしていた。

大学生のふりをしていた。

まだ戻れるような気がしていた。

けれど部屋は、こちらの事情など関係なく、少しずつ現実を映していた。

洗っていないもの。片づけていないもの。先送りしたもの。見たくないもの。

部屋が荒れると、生活が荒れる。生活が荒れると、判断力が落ちる。判断力が落ちると、さらに戻るのが面倒になる。

当時の僕は、それを「だらしない自分」としか見ていなかった。

でも今なら、もう少し違う見方もできる。

部屋が荒れていたのは、単に片づけが苦手だったからだけではない。外では普通を演じながら、内側ではすでにかなり崩れていたからだ。

肩書きで得た仕事と、失った自尊心

阪大時代、塾講師のバイトもしていた。

教えることは、わりと好きだった。自分でも、向いているんじゃないかと思った。勉強してきたことを人に説明するのは嫌いではなかったし、そこで少しだけ自尊心も保てていたのだと思う。

ただ、それも大阪大学という肩書きがあったから得られた仕事だった。

同じ大阪大学の別学部に通う同期もいて、今の自分の状態がバレるのが嫌だった。結局、適当な理由をつけて辞めた。

今思えば、あの塾講師のバイトはかなりラクに稼げる仕事だった。

当時の僕は、それで少し勘違いしていたのだと思う。

お金を稼ぐことは、案外簡単なんじゃないか。

もちろん、その後の人生で、僕は嫌というほど思い知らされることになる。

お金を稼ぐのは、そんなに簡単ではない。

そして、もう一つ思い知らされることになる。

社会は、本人の中にあるプライドや潜在能力を、すぐには見てくれない。

学歴、肩書き、職歴、所属。

まず見られるのは、外から分かるものだ。

自分には頭がある。自分は本当は違う。

そう思っていても、それを証明するものがなければ、社会は簡単には扱いを変えてくれない。

この現実に、僕は何度もぶつかることになる。

そして後に、僕は資格へ向かっていく。

学歴だけではなく、所属だけでもなく、外から見える形で自分の能力を証明するものが必要だと思うようになる。

親が来た日、もうごまかせなくなった

親が部屋に来た日、僕は追い詰められていた。

成績通知を見られたのだと思う。大学に行っていないことも、生活が崩れていることも、もう隠しきれなくなっていた。

もちろん、父親だけが悪いという話ではない。

僕は嘘をついていた。ごまかしていた。ちゃんとしているふりをしていた。怒られたくなかったし、失望されたくなかった。期待に応えられない自分を見せたくなかった。

一方で、父親の存在は重かった。

父は自営業で、昭和気質が強く、価値観を身内に強く求めるタイプだった。努力、節約、苦労、結果。そういうものへの圧が強かった。

「早く苦労したら後が楽になる」

その言葉は、今でも耳に残っている。

たぶん父の中では、それは人生の現実だったのだと思う。若いうちに苦労して、耐えて、後で楽になる。それは父自身の人生では、ある程度うまく機能した考え方だったのかもしれない。

でも、当時の僕にはそれが重かった。

小中高は受験を頑張れば良くなる。大学は就職を頑張れば良くなる。会社では年功序列の中で耐えれば楽になる。

でも、そこまで我慢して、人生は楽しいのか。

そんな反発もあった。

ただし、ここを綺麗に言いすぎると嘘になる。

僕は立派な思想でレールを降りたわけではない。

ただ怠惰な方へ逃げた面もある。目の前の現実を処理できず、先送りして、ごまかして、いよいよごまかせなくなった。

その結果として、親との衝突が起きた。

逃げることしか考えていなかった

その日、僕が考えていたのは、人生の再設計ではなかった。

もうこの人の影響下にいたくない。

とにかく距離を取りたい。

もう関わりたくない。

それが一番強かった。

その時、頭の中にあった選択肢が、トヨタ期間工だった。

正確に言えば、新しく思いついたわけではない。浪人期に一度、予備校代を稼ぐためにトヨタ期間工で働いたことがあった。だから、そこに行けば住む場所があることも、働けばお金が入ることも知っていた。

今思えば、かなり安直な判断だ。

でも当時の自分には、それが現実的に見えた。

期間工なら、住む場所がある。給料も出る。とりあえず親から離れられる。お金も貯まるかもしれない。

その先のキャリアをどうするか。自分が何をしたいのか。大学をどうするのか。将来どう生きるのか。

そんなことは、ほとんど考えていなかった。

ただ、今いる場所から出たかった。

期待に応える優等生を演じていた化けの皮は、もう剥がれかけていた。

その日が、決定的だった。

大阪大学に入ったのに、僕は何者にもなれなかった

大阪大学に入った。

けれど、僕は何者にもなれなかった。

この言葉は、単に「大学を中退した」という意味ではない。

期待に応える息子にもなれなかった。優秀な学生にもなれなかった。自分の才能を証明する人間にもなれなかった。努力して何かを積み上げる人間にもなれなかった。

そして何より、自分自身に対して「自分はこういう人間だ」と説明できなくなっていた。

履歴書に書けることだけを見れば、まだそれなりに見えたかもしれない。

有名私立の中高一貫校。大阪大学。

でも、履歴書に書けないところで、僕はかなり崩れていた。

部屋。生活。親との関係。自尊心。逃げたい気持ち。努力する人間への劣等感。才能への羨望。

そういうものが、全部絡まっていた。

同じように、演じ続けている人へ

もし今、昔の自分に近い場所にいる人がいるなら、言いたいことがある。

優等生を演じることは、最初は自分を守ってくれる。

期待に応えることも、結果を出すことも、ちゃんとしているふりをすることも、ある時期までは武器になる。

でも、その演技だけで人生を続けることはできない。

崩れ始めた時に必要なのは、もっと頑張ることだけではない。

まず、自分がどこで崩れているのかを言葉にすることだと思う。

部屋なのか。お金なのか。親との関係なのか。大学なのか。仕事なのか。自尊心なのか。孤独なのか。

言葉にできないものは、ずっと自分の中で膨らんでいく。

履歴書には書けない時間がある。

でも、書けないからといって、なかったことにはならない。

僕の場合、その化けの皮が剥がれた場所が、大学近くの荒れた部屋だった。

そこから逃げるように、愛知へ向かった。

その先で、僕は「とことん遊んでやる」と思いながら、思ったより何も楽しくない時間に入っていく。

次は、その話を書く。

次に読む遊び尽くすつもりだったのに、何も楽しくなかった

愛知で始まった一人暮らし。配信、ゲーム、異世界転生もの、大谷翔平への憧れ。遊び尽くすつもりだったのに、なぜか楽しくなかった前編。

この記事は「履歴書の余白」の個人記録です。特定の学校・職場・家庭の一般論ではなく、当時の自分の体験と現在の視点をもとに書いています。