親が部屋に来た。

成績通知を見たあとだったと思う。

大学には、もうあまり行かなくなっていた。部屋は荒れていた。ゴキブリも出た。けれど、外に出る時だけは、まだ普通の大学生みたいな顔をしていた。

小さい頃から、僕はたぶん「期待に応える側」の人間を演じていた。

成績が良くて、ちゃんとしていて、親に説明できる道を歩いている人間。学校名や成績や合格実績で、どうにか自分を説明できる人間。

でも、その化けの皮は少しずつ剥がれかけていた。

大学に行かない日が増えた。部屋が荒れた。成績通知が届いた。親が来た。

もう、ごまかせなくなっていた。

ただ、この日だけで急に壊れたわけではない。仮面は、もっと前から少しずつ薄くなっていた。

まだ「できる側」だった頃

小学校の頃、僕はわりと「できる側」にいた。

通っていたのは、私立の少し教育熱心な小学校だった。そこでは、そこまで必死に勉強しなくてもテストは取れた。周りと比べても成績は良かったし、学校生活でもそこまで居場所に困っていた記憶はない。

もちろん、当時の自分が何か特別に成熟していたわけではない。

ただ、子どもなりに「自分は勉強ができる方だ」という感覚はあった。

今思うと、それはかなり危うい土台だった。

努力して積み上げた自信というより、周囲との差でたまたま得られていた自信だったからだ。

小さいコミュニティで上にいられると、人は自分の実力を少し大きく見積もる。僕もそうだったと思う。

「自分はやればできる」

「本気を出せば戻れる」

「まだ大丈夫」

その感覚は、長い間、自分を支えてくれた。けれど同時に、落ち始めた時に現実を直視できなくする言い訳にもなった。

進学校で、初めて通用しなくなった

関西の有名私立中高一貫校に入ると、景色が変わった。

周りには、自分よりずっと頭のいい人間が普通にいた。勉強だけではない。会話のテンポ、笑いの作り方、空気の読み方、集団内での立ち位置。

いろんな面で、自分が前の場所と同じようには振る舞えないことを感じた。

それまで「できる側」だった感覚が、少しずつ揺らいでいった。

小学校までの自信は、かなり狭い場所で成立していたものだった。

有名私立の中高一貫校では、自分より頭のいい人間、自分より要領のいい人間、自分より自然に場に馴染める人間が普通にいた。

その中で、僕は少しずつ「できる側」ではなくなっていった。

ただ、ここで完全に折れたわけではない。

むしろ、まだどこかで思っていた。

自分は本当はできる。

今は少し噛み合っていないだけだ。

その感覚が、あとあとまで残り続けることになる。

阪大に入れば、何かが変わると思っていた

それでも、大阪大学に入った。

外から見れば、いったんレールに戻ったように見えたと思う。

中高一貫の進学校で思うようにいかなかった。けれど、阪大に入った。十分に説明できる学歴だった。親にも、周囲にも、自分自身にも、まだ言い訳ができた。

大学に入れば、何かが変わると思っていた。

ようやく、晴れて大学生活が始まる。いわゆるキャンパスライフを送れる。そんな期待もあった。

ただ、そこにも一つ前段がある。

僕は浪人していた。そして、予備校代を自分で稼ぐために、一度トヨタの期間工で働いている。

受験期に、それなりの時間を勉強に使ってきたという意識もあった。青春を全部捨てたなどと大げさに言うつもりはない。漫画を読んでサボっていたこともある。

それでも、一般的な中高生と比べれば、塾に通い、受験にかなりの時間を割いていたと思う。

だからこそ、阪大に入った時には、どこかで報われるような気持ちがあった。

これでようやく、普通の大学生になれる。

これでようやく、楽しいキャンパスライフが始まる。

そんな期待があった。

でも、内側の違和感が消えたわけではなかった。

僕はどこかで、ずっと「優等生の続きを演じている」ような感覚を抱えていたのかもしれない。

自由になったのに、自由を扱えなかった

それまでの自分は、ずっと親の監視下にいた感覚が強かった。

勉強しているか。ちゃんとしているか。期待に応えているか。そういう視線を、どこかで常に意識していた。

でも一人暮らしを始めると、その視線が一気になくなった。

誰からも見られていない。

誰の期待にも応えなくていい。

勉強するふりもしなくていい。

優等生を演じなくてもいい。

それは自由だった。

ただ、その自由は自分にとって、うまく扱えるものではなかったのだと思う。

普通の人は、中高生くらいの時期に少しずつ遊びを覚え、恋愛をし、親や周囲の期待との距離の取り方も覚えていくのかもしれない。

でも僕は、そのあたりの調整が下手だった。

親の監視下から急に解き放たれた時、歯止めが効かなくなった面があったのだと思う。

自由になったのに、自由をどう使えばいいのか分からなかった。

大学生活は、思っていたものと違った

大学の授業は、思ったより退屈で、分かりにくかった。

予備校や塾で、教えることを仕事にしている人たちの授業をいろいろ受けてきた自分にとって、大学の授業はかなり違って見えた。

教授は研究者であって、教えるプロではない。

もちろん、それは大学という場所の性質でもある。

ただ、当時の僕はその違いをうまく受け止められなかった。

分からないところがあっても、教授に質問しに行くタイプではなかった。学部内に気軽に聞ける友人がいたわけでもない。

新入生歓迎会で水泳部に誘われ、そのまま入部はした。でも、水泳部の同期とは学部が違う。部活では接点があっても、授業や試験を一緒に乗り切るような関係ではなかった。

僕が経験した範囲での話だから、今がどうなのかは分からない。

ただ当時、定期試験はどこか情報戦のように見えた。

先輩から過去問をもらう。過去問を暗記する。出席カードを友人に出してもらう。最初の数分だけ授業に出る。

そういうことが、国立の大阪大学でも普通に行われているのかと驚いた。

同時に、真面目に一人で授業を受けている自分が、少し馬鹿らしくもなった。

もちろん、今なら分かる。大学は勉強だけでなく、人間関係を作って情報を取りに行く場所でもある。過去問をもらうこと自体が悪いというより、そういうネットワークも含めて大学生活なのだと思う。

でも当時の自分は、そこにうまく入れなかった。

線形代数や物理には憧れがあった。電磁気学のようなものにも、あとから強く惹かれることになる。

でも、阪大にいた当時の僕は、学びたい気持ちと、大学に通い続ける現実の間で、うまく噛み合っていなかった。

水泳部を辞めて、通う理由が消えた

最終的なきっかけになったのは、水泳部を辞めたことだったと思う。

部活を辞めると、大学に行く強制力が一気になくなった。

少し休めば戻れる。

またそのうち行けばいい。

そう思っているうちに、ズルズルと時間が過ぎていった。

一度行かなくなった学校に、次にどんな顔をして行けばいいのか分からなかった。

一日サボるだけのつもりが、二日、三日になる。日が経つほど、戻る時の周りの反応が気になる。すると、さらに行けなくなる。

特に僕のように、周りの反応を気にするタイプは気をつけた方がいい。

学校や会社は、一度行かなくなると、戻ること自体が一つの大きなイベントになってしまう。

まだ本格的なひきこもりではなかった。

でも、生活は確実に荒れていった。

大学生のふりをしたまま、大学に行けない時間だけが増えていった。

そして、部屋も少しずつ荒れていった。

親がその部屋に来るのは、もう少し後のことだ。

続き親が部屋に来た日、僕は大阪を出ることにした

荒れた部屋、塾講師のバイト、肩書きで保っていた自尊心、親との衝突。そして、トヨタ期間工へ逃げるように向かった日の話。

この記事は「履歴書の余白」の個人記録です。特定の学校・職場・家庭の一般論ではなく、当時の自分の体験と現在の視点をもとに書いています。