こんにちは。
たまに考えるんですが、人って、何のために働いているんでしょうね。
まずは、お金でいい
もちろん最初は、お金です。
家賃を払うため。ご飯を食べるため。スマホ代を払うため。将来の不安を少しでも減らすため。
これはきれいごとではなく、かなり大事です。
お金がないと、心に余裕がなくなります。余裕がなくなると、視野も狭くなります。視野が狭くなると、目の前のことで精一杯になります。
だから、まずは生活を整える。これは人間としてかなり自然なことです。
欲求には、段階がある
マズローの欲求5段階説というものがあります。
ざっくり言うと、人間の欲求には段階があるという考え方です。
まずは、生きるための欲求。食べたい、眠りたい、休みたい。
次に、安全に暮らしたいという欲求。安定した収入がほしい。安心できる場所がほしい。不安なく生活したい。
その次に、人とのつながりがほしくなる。仲間がほしい。居場所がほしい。誰かと関わっていたい。
さらに進むと、認められたくなる。すごいと思われたい。必要とされたい。自分の価値を感じたい。
そして最後に、自分らしく生きたい、自分の可能性を形にしたいという欲求に向かっていく。
これが、いわゆる自己実現です。
もちろん、この順番どおりにきれいに進むかは分かりません。人間はそんなに単純ではありません。
お金がほしいと思いながら、同時に認められたいとも思う。安定したいと思いながら、退屈な毎日は嫌だとも思う。誰かの役に立ちたいと思いながら、自分の得にもなってほしいと思う。
かなり面倒な生き物です。
でも、だから面白いのかもしれません。
「もっと」が、人を動かす
もし人間が、本当に最低限の生活だけで満足できるなら、ここまで社会は発展していなかったと思います。
もっといい暮らしがしたい。もっと自由になりたい。もっと評価されたい。もっと面白いことがしたい。もっと上に行きたい。
この「もっと」があるから、人は動きます。
欲というと、少し悪いもののように聞こえます。
でも、欲がなければ努力もしない。工夫もしない。挑戦もしない。今より良くしようとも思わない。
だから、欲は悪ではないと思います。
問題は、その欲がどこに向かっているかです。
ただ人より勝ちたいだけなのか。ただ見栄を張りたいだけなのか。ただお金の数字を増やしたいだけなのか。
それとも、自分の人生を少しでも良くしたいのか。家族や身近な人を安心させたいのか。自分の力で選べる人生に近づきたいのか。誰かの役に立てる人間になりたいのか。
同じ「もっと」でも、向かう先で意味が変わります。
自己実現の先にあるもの
マズローの話には、さらに上があると言われています。
自己実現の先にあるもの。
それが「自己超越」です。
少し難しい言葉ですが、簡単に言えば、自分のためだけではなく、自分を超えて誰かのために動く段階です。
自分が得たものを、誰かに返したい。自分の経験を、誰かの役に立てたい。自分の成功だけではなく、誰かの成功も助けたい。自分が生きたことで、少しでも何かを良くしたい。
そういう感覚です。
これは、かなりきれいな話です。
ただ、現実の人間は、いきなりそこには行けません。
まず自分が苦しいのに、誰かのために生きるのは難しいです。
お金がない。時間がない。余裕がない。自信がない。
そんな状態で、いきなり「社会のために」と言われても、正直しんどい。
入口は、何でもいい
だから、順番があると思います。
まずは自分の生活を整える。次に、自分の安心を作る。それから、居場所や仲間を作る。そして、自分の力を磨く。認められる経験を積む。自分なりの生き方を探す。
その先でようやく、「自分のためにやってきたことが、誰かの役にも立つ」という段階に入っていくのだと思います。
最初から立派じゃなくていいんですよね。
最初はお金のためでいい。安定のためでいい。見返したいでもいい。認められたいでもいい。今より少しマシになりたいでもいい。
入口は何でもいいと思います。
ただ、そこで終わらなければいい。
自分の欲を、少しずつ育てていく。
お金がほしい。安心したい。認められたい。自由になりたい。誰かの役に立ちたい。何かを残したい。
そうやって欲の形が変わっていくことが、人が成長するということなのかもしれません。
もっと上へ
人は、ただ生きるためだけに働いているわけではありません。
でも、最初から崇高な目的だけで動けるほど、きれいな生き物でもありません。
自分のために始めて、少しずつ誰かのためにもなっていく。
そのくらいが、ちょうど人間らしいのかなと思います。
もっと上へ。
この言葉は、欲深くも聞こえます。
でも、上へ行くというのは、単にお金持ちになることだけではありません。
見える景色を変えること。選べる道を増やすこと。自分の器を広げること。誰かに渡せるものを持つこと。
そう考えると、人が上を目指すのは、案外悪いことではないのかもしれません。
大事なのは、その「上」が、誰かを踏みつけるための上なのか、それとも、自分も誰かも少し楽にするための上なのか。
そこだけは、たまに考えておきたいですね。